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2016年10月

2016年10月20日 (木)

フォックス・サイン≒ウルフ・サイン

Wolfsign

 キツネサインの元ネタであるメロイック・サインが、単に「ロニー・ディオがやってたからカッコイイので広まった」(ロニーは魔術マニアだった)以外に現在敷衍している様々な解釈については、このブログでもずっと以前に触れたと思う。
 どうもしかし、これはある特定の時期に論じられたものの様だ。
 先般、80~90年代のロサンジェルスのパンク・シーンを捉えたドキュメンタリ映画「ザ・デクライン(西欧文明の衰退)」三部作をDVDで観たのだが、2作目はL.A.メタル勃興時のメタル・シーンを描いた「メタル・イヤーズ」だ。インタヴューイーとして登場する若い諸バンド・メンバー(現代の目で見るとあまりに恥ずかしい扮装をしている)の談話は、デイヴ・ムスティンを筆頭に何れも、メタル・バンドとしてのアティテュードから全く逸脱しない。音楽雑誌取材の様な(つまらない)談話と同質だ。ポール・スタンレーの場面は、裸の女を数人はべらせ横たわった姿勢を上から撮影している。つまり、「どう他者から見られたいか」というペルソナを体現している。
(オジー・オズボーンや故・レミー・キルミスターといったイギリス勢は例外的に自然体を晒していた)。
 後年サム・ダンが、ミュージシャンとしての本音を聞き出したメタル・ドキュメンタリ諸作のそれとは真逆の取材スタイルだ。というより、サム・ダンはそれを狙ったとも思える。

 しかしドキュメンタリとしてつまらない訳では決して無い。監督(ペネロープ・スフィーリス/後に『ウェインズ・ワールド』を撮る)は特にガター・パンク(ホームレスなパンクス)の心情に沿ってフィルムを回している。全ての映画の冒頭は、登場ミュージシャン全員にステージ上で言わせる「客席も撮影するけど文句言うなよ」宣言をモンタージュしており、キャメラが記録している事を意識させた上で被写体を捉える姿勢は、モダンなドキュメンタリの王道的な手法でもある。
「メタル・イヤーズ」に、流行り始めていたメロイック・サイン(まだその呼称は使われていない)を説明する場面があるのだが、ティッパー・ゴアのPMRC関係者らしき女性はサインをレンズに向けて作り、「このサインには6,6,6が含まれている」と得意気に述べる(だから悪魔的でありヘヴィ・メタルは社会から排除すべきという主張)。
 流石に「アホですか」と漏らさざるを得なかった。ならば、普通のピースサインであっても3本の指が折られている訳で、これまた「666」なのだから。

 ともあれ、あのサインは最初から悪魔信仰とはほぼ無関係なのであった。

Advisory_2

 暫く前、National Geographicチャンネルで「血塗られた遺物」というドキュメンタリーを見ていた。今年製作の新作で、ISISによって破壊された古代文明遺跡の一部や遺物の多くが、アンダーグラウンドのブローカーによって欧州各地で売り払われている事を告発するものだった。当然ながらこれらの売却はISISの活動資金となっていた。
 リポーターはイギリスのジャーナリストで、やや危険な潜入取材も試みるのだが、キャメラに決定的な瞬間を収める事は出来ず証言構成が主となっていた。
 ロンドン市内でも遺物を売る業者がおり、それを仲介しているらしいブローカーを突き止め、そのブローカーはトルコ人だった。
 その人物が映った画像をPCで見ると、リポーターは通訳の女性に「これ、何のポーズ?」と訊ねる。「ヘヴィメタル」そう言って女性はメロイック・サインを作って見せた。しかし画像に写っている男のポーズはそれではなくキツネサインだったのである。

 はて、トルコ人のキツネサインというのは見覚えがあるなと、衰えつつある記憶を手繰ると、ジャン・レノ主演の映画だった事をやっと思い出した。
「エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」(2005)は、ジャン・レノが以前主演した「クリムゾン・リバー」と同じ原作者の小説を映画化したものだ。記憶を喪失した主婦が、自分に覚えのない整形跡を見つけるスリラーと、違法移民連続殺人事件を交錯させた映画で、ミステリとしてはあまり良い物語と言えない。
 この映画の「悪の組織」として登場するのが「灰色の狼」という実在のオスマン帝国主義トルコ極右組織で、彼らのポーズが「狼」を模した件のサインなのである。映画ではそれについてはさらりと触れるのみだった。
 その組織の思想性等はさておいて、トルコの周辺国では件のサインはその団体を象徴するものとして広くではないだろうが、知られている様だ。

 さて、この様な事があるからと言って私は当然ながら、ポリティカリーにインコレクトだとか、アンスータブル(不適切)だなどと言ってBABYMETALはキツネサインを控えるべきとは考えない。『META!メタ太郎』には指を伸ばした腕を斜め前方に差し出す振りが、敬礼と交互に実行されるパートがある。瞬間的にではあるがローマ式敬礼に見える事から、ドイツでこの振り付けは拙いのではという声があった。しかし何の問題もなく、この振り付けのままドイツでもパフォーマンスする事が出来た。
 長らくドイツ国内では発売禁止であった「わが闘争」が遂に多大な注釈入りで復刊され、状況は変化しているのだが、あの敬礼については今も尚タブーとなっている。フィル・アンセルモの近年最大のヘマであった「ホワイト・パワー」宣言は、あのポーズ付きだった事も問題視されたのだ。

 

 外国語の歌詞がその国の言語としては不適切な音韻に近い、という理由で変更されるという例は、過去に幾つかあった。今のところ幸いにしてBABYMETALにその様な事例は無い。
 キツネサインばかりではなく、MIKIKO-METALの創造性から生まれたポーズやサインの中には、他国の文化で何らかのタブーに触れる様なものが無いとも言いきれまい。
 そして、アメリカも欧州も、ISISによるものばかりではない殺傷事件は頻繁に起きている。
 そんな時代に、無防備な少女達を海外遠征させる事について、事務所がどれだけ胃を痛めるかは容易に想像もつく。
 テロばかりではなく、政治的に今欧州は極めて不安定になっている。
 しかしそうだとしても、今、BABYMETALは「なんじゃこりゃ」と多くの笑顔を作りに海を越えている。

 何らかのタブーに触れる危険はあるとしても、それでも歌で、振り付けでBABYMETALは異国の人々に強く語りかける。タブーの危険があるからとモラトリアムに陥っている無気力さ、無関心さの方が遥かに危険なのだ。
 今は音楽の嗜好性という、社会に於いては左程の問題とはならない領域でああるが、BABYMETALは壁を突き崩し続けている。「◯◯は××でなければならない」という固定観念を破壊し、「こ、これもアリかも」「いやこれしかない」という意識の変化を起こし続けてきた。
 その意識変化の対象が、社会全体にまでフレームが広げられたなら、きっと今よりも平穏な気持ちが持てるに違いない。
 BABYMETALが、「BABYMETALというジャンル」を否応なく確立した事を周知させた時、社会に於けるダイヴァーシティ(台場のZeppがあるビルの事ではなく「多様性」)が真の意味を持つのだろう。



2016年10月10日 (月)

パワー・バラードの悩ましさ

 本エントリは4月の『METAL RESISTANCE』発売後間もない時期に書いたものながら、アップを躊躇っていた記事である。位置づけとしてはプログラム論考の前振りだったのだけれど、『NO RAIN, NO RAINBOW』そのものとはあまり関係が無い。

 東京ドームで初めて生で聴いた『NO RAIN, NO RAINBOW』が素晴らしかった事は前に書いている。

Nora

『NO RAIN, NO RAINBOW』は2014年の武道館にても披露され、映像ソフト化されていた既発表曲だが、私はこれまでこの曲について触れる事を避けていた。
 中元すず香の歌としては勿論堪能出来るし、メタルに限らずロックのライヴでバラードがセットリストに入る事は普遍的であり、存在意義はあると思う。

 個人的趣味嗜好を告白せねばなるまいが、私はバラードというものがどうしても好きではない。
 これはBABYMETALだからなのではなく、基本的な趣味の問題だ。

 静かな曲を聴きたいのであれば、そうしたサウンドを主とするジャンルのものを聴く。
 激しい音圧を浴びたいが故に聴いているロックのアルバムでバラードがあると、私は落胆してしまう。

 学生時代、パーティーのハコバン(ド)をバイトで幾度か経験したが、バラードを演るのが嫌で嫌で仕方なかった。ベースはルートを淡々と弾くばかりで、良い気分なのはヴォーカルだけじゃないかと不満を募らせたのも、トラウマ的にはあるのだろう。
 例外的に、デヴィッド・フォスターがアレンジしたバラードは、プログレ由来の屈折したテンションや、一回だけ変化する様な工夫がアレンジに盛り込まれており嫌いではなかった(尤も、音源では大抵シンセベースなのだが)。

 アイドルの歌うバラード、となると唯一私が好きになったのは、少女隊のアルバムには必ず1曲入っていた「安原麗子のソロバラード」だった。
 少女隊についてはいずれ書くかもしれない(ブログ初期は書く気でいたのだが完全に機を逸してしまった)。これは楽曲が当時のアイドルの歌とは思えないAORであったのと、安原麗子のウィスパー・ヴォイス歌唱が恐ろしくマッチしていたからだった。

 メタル/ロックに於けるバラードは、そのバンドのターニング・ポイントを握った例が多いのも、私にとってはネガティヴな印象となっている。
 KISSが最初にブレイクしたのはピーター・クリスが歌う「Beth」であった。それまでアングラなロックンロール・バンドだったKISSがレコード・セールスも上げ始めるには、この曲のシングル・ヒットが必要だったのだ。

 私が大好きだったファンク・メタルバンドExtream(つい先日来日。ライヴ行きたかった……)。も、代表曲となると「More Than Words」というアンプラグド・バラードだった。
 お陰でExtreamと言えばこの曲を先ず思い浮かべる人が多勢となってしまい、ヌーノ・ベッテンコートの繰り出すグルーヴに満ちたリフをメインにした、極めて独自なバンド・サウンドの影が薄くなってしまった(勿論 Get The Funk Outといったヒット曲もあるのだが)
 余談だが、2014年頃か、ヌーノは打上げのクラブか何処かで自ら持参した『BABYMETAL』(アルバム)を掛けたらしい。いつかレコーディングにでも参加してくれたらと淡い期待を抱いている。
 L.A.メタル全盛時にバラードは必須になっていた。
 最近では、メタル/ロックのバラードは「パワー・バラード」と呼ばれている。

 恐らく、パワー・バラードのアーキタイプとなったグループと言えば、意外かもしれないがCarpentesである。
 1972年のアルバム「A Song For You」に収められた「Goodbye To Love」がそれだ。

 甘いラヴバラードの様な曲調だが、「私にはもう愛など無関係なのだ」と恐ろしく悲壮な歌詞である。
 Carpentersのアルバムは半分は既存曲をCarpenters流にアレンジしたもので、それ以外がRichard Carpenterのオリジナルだ。デビュウ・シングルは「Ticket To Ride」であるし(殆どヒットせず)、ヒットした曲もカヴァーとオリジナルは半々ぐらいだろう。
 しかしこれはリチャードが謙虚なのではなく、自分の才能に強い自信を持っていたからだと思う。自分が書いた曲と、バート・バカラックの「遥かなる影 (Close To You)」を並べているのだ(この曲の提案自体は当時A&M社長だったハーブ・アルパートだったが)。

 鉄壁な砂糖コーティングが施されたCarpenters楽曲は、曲調からして楽器のソロがある場合にはオーボエやクラリネット、サックスがとる場合が多い。卓越した鍵盤の腕を持つリチャードだが、あまりソロを積極的に弾こうとはしなかった。
「Goodbye To Love」のレコーディング時、リチャードはファズ・ギターのソロを入れたいと言い出す。
 当時前座を務めていたバンドのギタリスト、トニー・ペルーソにカレンが直接電話をして、ギターを持ってスタジオに来て欲しいと要請した。
 驚きながらも、ペルーソは曲に合った様なソフトなソロを最初に弾くが、リチャードは「違う違う、最初の6小節から後はもっと激しく!」と駄目出しをする。

 結果、ブルージーでアグレッシヴなソロが中間とエンディングに録音されている。
 ファズのみでリヴァーブさえ掛かっておらず、浮いていると言えば浮いているのだが、この曲は最早このソロが不可欠な存在となった。

 このBBCが放送したライヴでも、ギターを弾いているのはペルーソ。「Goodbye To Love」のレコーディング以来、彼はツアーでも録音でもカーペンターズを12年間サポートした。2010年に亡くなっている

 Carpentersの以降の楽曲では、こんな趣向の曲は録音されていない。

 少なくとも70年代後半のロックバンドがバラードで、いきなり激しいディストーションのソロをやってもいいと思ったのは、この曲の存在が無意識下に影響していたとは類推出来ると思う。

 本稿としては余談になるのだが、この曲の歌メロには♭や♯が多々つく半音階が多用され、更にはブレス位置が極端に少ない。こう書くとBABYMETAL主力作家の作風を連想させるが、勿論何の関係も無いだろう。

『THE ONE』もパワー・バラードだと受け取るレヴュワーが多いが、プログレ・バンドのレパートリーという見方からすればシンフォニック・トラックの範疇で、敢えてバラードと呼ぶ必要もないと個人的には思う(勿論『Unfinished Ver.』はバラードだ)。

『NO RAIN, NO RAINBOW』は、曲としてはメロディ/コードも歌詞も、SU-METALが一度歌った『翼をください』と比べてしまうと、意地悪く言えばあまりに凡庸だ。Aメロの下降コード進行で残りの大凡の曲想は見当がついてしまう。
 しかしこの曲はSU-METALのポテンシャルを広げるキーともなる曲であった。
 個人的には、メロにせよコードにせよ、もうちょっと捻って欲しかったのだけれど、それをやればSU-METALの歌がすんなりと聴取者に届かなくなってしまう可能性もあろう。
 そういう事として私は自らを収めようと思っていた。
 しかし、雑誌インタヴュウでKOBAMETALはこの曲を「Billy Joelの『Honesty』みたいなのいいよね」というところでプロデュースしたと述べていて、「ええ~? だったらもうちょい凝ろうよ。あんなフックの多い曲もないんだから」と率直に思ったのだった。

 しかし振り返れば、メタル・バンドのパワー・バラード自体、凝った様な曲はあまり無い気もする。パワー・バラードはそういうものだと捉えるべきなのかもしれない。

『METAL RESISTANCE』に於けるこのトラックは、Ledaによる多重録音のギター・ソロがフィーチュアされている。
 この部分を海外のレヴュワーは「Queen(ブライアン・メイ)風」と捉えた人が多く、確かにそういうものを狙ってはいただろう。
 しかし殊更に「あの音」、端的に言えばBurnsのTri-sonicシングルコイル・ピックアップのフェイズ・アウト出力で、レンジマスター(トレブル・ブースター)を噛ませてVOX AC100AC30(か、ジョン・ディーコン製作のDeacy AMP)を鳴らし、最低でも30回は音を重ねる事で得られるギター・オーケストレーションではない。
 ライヴでの再現性を考慮して、ツインが主ラインとなっている。
 これが「良い塩梅」だったと思う。もっと似せる事は幾らでも出来る筈だが、Queenの中の人の一部には洒落が通じない事を、私は知っているのだから。

 90年代末に脚本を書いたあるロボット・アニメの主題曲が、あまりにもアレっぽかったのだが、海外版をリリースしてからややして、何らかのクレームがついてしまった(訴訟とはなっていない)。どのメンバーかは知らないが、子どもがそのアニメを見ていて「この曲、お父さん達の曲に似ているね」的な事を言ったらしい。勿論子どもは責められまい。
 このシリーズは幾度もDVDやBlu-rayで再発売されてきているが、主題曲は新規に作られた曲に差替えられており、オリジナル版の発売は二度と叶わなくなっしまった。
 という事で、『NO RAIN, NO RAINBOW』のギター・ソロが「あんまり似てない」事に、個人的には胸を大いに撫で下ろしたのだった。

 オマージュと剽窃の境界は極めて恣意的なものなのだと思い知らされた出来事だった。

2016年10月 4日 (火)

御来場御礼

Errata_front

 昨日の本屋B&Bに御来場戴いた方々、ありがとうございました。
 トークのお相手をお願いした円堂都司昭さん、突然話に参加して戴いた柴那典さんには深く深く感謝しております。お陰でなんとかイヴェントとして成立出来たと思っております。またカネコシュウヘイさんにも来て戴いて恐縮です。

 昨日配布した、特別限定版正誤表のデータはこちらです。先に上げたものに追加もあります(重ねて申し訳ありません……)。

 何れの方々とも昨日が初対面だったのですが、BABYMETALについて話をするのは愉しいな、と思いました。私にとってBABYMETALは、「考え」て「書く」対象だったのだったし、BABYMETALについてのコミュニケーションに触れるにしても、ネット上が全てでした。
 固有名詞を言う度に気恥ずかしさを抱きながら話をする事は愉しい。それを知りました。

 とは言え、昨日を以て私はまたただの一ブロガーに戻り、ファン・モードに戻れます。
 プライマリー・オキュペイションが「BABYMETALの事を書く人」状態であったこの3ヶ月ほどは流石に辛かったです……。

 頻繁には更新出来ませんが、「BABYMETAL INFO.」さん、「BABYMETALアンテナサイト」さんなどアンテナサイトに登録して戴いているので、週一程度でもチェックして戴ければ幸いです。

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